2017年9月26日火曜日

明智光秀の埋蔵金

この話は歴史上の説に基づいておりません。

時は1582年のことであった。尤も当時は西暦が伝わっていなかった。天正10年のことである。こう書けば知る人は何があったかおぼろげに分かると思う。だいたいからして、題名だけでどんな話かは想像できるかも知れない。 6月2日の真夜中のことである。

光秀は主君、織田信長に呼ばれて本能寺に夜這いに出かけたのである。しかし、気まぐれな信長のこと、そんなことは知らぬ顔。
「ええい、主君の蒲団に入ろうとするとは何事か!手討ちにしてくれるわ!」
光秀は信長の振り下ろす剣をかいくぐってほうほうの体で逃げ帰った。光秀にしてみれば、掘られるのは耐えれるが、殺されるのは納得行きかねたのだろう。

「信長の野郎。年下のくせに偉そうにしやがって(※1)」
こうなってくると、ネガティブ思考の光秀は過去のことをいちいち思い出すのだった。
「そういえば、なぜ猿などをとりたてるのじゃ。あやつは元々盗賊の子分ではないか※2」
そう思えば、羽柴秀吉も蜂須賀小六も憎い奴らである。明日になればまた信長に因縁をつけられるに違いない。
「今夜のうちに殺らなければ」
幸い唯一のライバル羽柴秀吉は岡山へ泥沼※3を作りに行っている。秀吉の方が人望があるから今宵はチャンスだ。

光秀は明け方に本能寺に奇襲をかけることとなる。ところが本能寺に着いてみると、既に誰かが奇襲をかけた後だ。これは、どうも秀吉の戦略らしい。光秀ははっと気づいた。
「秀吉は俺を狙ってくる。信長殺害の汚名を着せるために」

とにかくもタナボタ式に明智光秀は天下をとったのであった。

備中松山で泥沼を作っていた秀吉は、すぐに帰り自宅を始めた。この時、恵の雨が降って泥沼が普通の沼になったのであった。これで信長死亡の報は相手に届かない。城主を切腹させて部下を救うということで、和解し、秀吉は京に向かった。

光秀も秀吉が帰ってくるのは知っていたので、戦力を揃えて迎えうった。秀吉軍27,000に対して光秀軍16,000、しかもあてにしていた武将※4に断られ、不利になったら攻め込まれるかも知れない。実際に筒井順慶などは淀川の対岸の洞が峠まで兵を進めて、戦況を見て結局引き上げたのである。普通に戦えば確実に負けると思った光秀は、山が淀川に迫った山崎の地で戦うこととした。

光秀軍は秀吉軍に敗れ、敗走中の光秀は山中に逃げ結局討ち取られてしまった。竹槍で光秀を討ち取っとったところから、太平洋戦争では竹槍で戦おうとしたふしがある。敗走の途中で光秀が飲んだ湧き水はやがてサントリーウイスキーへと変わったのである。

しかしながら明智光秀は利口な男だった。山中なら道のないところを、平地なら街道を進んだに違いない。当然殺されたのは影武者である。この世に自分と同じ顔をした人は3人いると言うから、彼らを探してきたに違いない。軍資金をどこかへ隠したに違いない。不利な戦いになるのは分かっていたから逃げ道は必ず用意していた。光秀は明智村に撤退し、秀吉への恨みを抱いたまま、農業に勤しむのであった。

そして、ライバルの秀吉は天下をとったのだった。

明智光秀が軍資金を隠したとされるところは数多くある。私が見積もった額では約60億円である。見つけたら遊んで暮らせるかも?

※1:明智光秀は織田信長より5歳年上であった。
※2:秀吉は最初蜂須賀小六の子分だった。
※3:普通に戦えば勝てるのになぜ泥沼を作ったのかよく分からない。
※4:細川藤孝(光秀の娘婿)が中立になったのが誤算だった。


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