さて六甲山であるが、普通の山であった。せいぜい木の枝を切って薪としたり、おじいさんが芝刈りをするぐらいだった。戦国時代にあちこちに城を建てたのが環境破壊の始まりである。木は切り倒され、合戦地となれば火をつけられたりして、ダメージが広がっていったのだ。荒れた土地に最初に自生したのはアカマツであった。
江戸時代になると、アカマツ林はマツタケを採るぐらいにしておけばよかったのだが、燃料用に切り倒してしまった。マツはマツヤニが採れるので文字通り根こそぎ掘り起こしてしまったのである。その結果、坂本龍馬が走り回っていた頃には、お寺の周囲以外は木がなくなってしまった。
現在でもあちこちにハゲ山はあるがたいてい岩盤が露出している。私はハゲ山からの景色が特に好きである。眺めがいいからである。山頂の眺めが悪いとがっかりである。明治時代後半になるとさすがにこれではいかんと思ったのか、植林事業が始まった。そして現在の山になったのかというとそうでもない。山火事や戦争、集中豪雨などでダメージを受け続け、現在の基礎が出来上がったのは昭和40年代である。
神戸は水害都市である。ハゲ山からは雨が降れば一気に水が集まってくる。髪の毛がある人はハゲ頭に比べて、頭を洗う時間がかかることを考えれば誰でも分かるだろう。一気に来るから土砂も流れてくる。堤防を築いても、山から砂が出てきて川底にたまるので、堤防を上げねばならない。悪循環の見本である。そして、六甲山南麓の川は天井川になった。
豪雨があると水が一気に集まってくる。ところが砂が溜まったあたりになると、水が流れにくくなり、水位が上昇してやがて堤防を越える。実際は川と言ってもそれほど大きな川ではないのだが、何しろ天井川である。一旦流れ出た水は川へ戻ることはない。かくして広範囲にわたって、水害がおこったのである。
昭和以降の水害は以下のとおりである。
昭和9年(1934)9月21日 室戸台風 床上2,547戸、床下7,919戸、死者6名。
昭和13年(1938)7月3日~5日 阪神大水害 住家流失1,497戸、埋没966戸、全壊2,658戸、半壊7,879戸、床上31,643戸、床下75,252戸、死者671名、行方不明24名、堤防決壊14、道路決壊69、橋梁流失57。
昭和14年(1939)8月1日 浸水14,165戸、死者2名、堤防決壊23。
昭和20年(1945)10月8日~11日 阿久根台風 河川決壊破損87、道路決壊破損141、橋梁被害61。
昭和21年(1946)6月18日~19日 河川決壊破損53、道路決壊破損46、橋梁流失破損12。
昭和25年(1950)9月3日 ジェーン台風 家屋全半壊1,067戸、流失39戸、床上58戸、床下2,682戸、堤防決壊44、道路破損70。
昭和28年(1953)6月7日 台風2号、浸水673戸、死者4名、堤防決壊37、道路破損30。
昭和28年(1953)9月25日 台風13号、家屋全半壊689戸、浸水1,047戸。
昭和36年(1961)6月24日~27日 家屋流失11戸、全壊140戸、半壊263戸、床上3,960戸、床下29,376戸、死者28名、行方不明3名、河川被害973、道路被害580、橋梁流失62。
昭和36年(1961)9月16日 第二室戸台風 家屋全半壊流失2,555戸、床上8,801戸、床下36,034戸、死者10名、河川被害1,756、砂防98、道路1,044、橋梁121、緊急砂防12。
昭和39年(1964)8月1日 死者2人、浸水14165戸
昭和40年(1965)9月10日 台風23号、家屋全半壊1,765戸、床上2,603戸、床下1,262戸。
昭和40年(1965)9月17日 台風24号、家屋全半壊176戸、床上102戸。
昭和42年(1967)7月9日 7月豪雨 家屋全壊367戸、半壊390戸、床上9,187戸、床下49,650戸、死者90名、行方不明8名、河川決壊29、溢水氾濫74、橋梁流失37、山くずれ141、がけくずれ168、道路崩壊162。
平成10年(1998)9月22日 新湊川水害、浸水
平成11年(1999)6月29日 新湊川水害 浸水
平成20年(2008)7月28日 都賀川水難事故 死者5名
現在はようやく草木の繁る山となったが、誰が植えたかヤシャブシが多量にある。ヤシャブシの花粉はハンノキ花粉症の原因となっている。ハンノキ花粉症はシラカバ花粉症と非常に近く、併発する場合もある。これらの花粉症は果物アレルギーも併発することがあるので、関西だからと安心してはいけない。場合によってはアナフィラキシーショックを起こすこともあるので気をつけよう。私もアレルギー体質である。他人事ではないのだ。
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